おもかげ寿司の由来
『おもかげ』という名前は、新宿の『面影橋』から来ています
本店が神田川にかかる面影橋のたもとで商売をしていまして、その名前を屋号にいただいて『面影寿司』になったそうです
うちが『おもかげ寿司』とひらがなにしているのは、親父が本店とまったく同じが嫌だったのか、漢字が嫌だったのか、
あえて、ひらがなにしたと聞いています
寿司屋になった経緯・先代(父)との思い出
~ 子供の頃に憧れた『板場の父の背中』~
24歳の頃に先代である父からこの店を預かりまして、その前の修行期間も含めると、大体30年くらいでしょうか
子供の頃から板場に立つ親父の背中を見て育ちまして、素直にカッコいいと思っていました
親父は、あまり物を言わない人だったんで、あれやれ、これやれってことは昔からあまり言われませんでした
なので、私は子供の頃から自分でやったことがないことは何でもやって、失敗もする、そんなことを繰り返してきました
子供の頃の思い出なんですが、毎年1月5日に築地市場の初荷がありまして、親父に「一回行くか」って言われたときは、嬉しかったですね
ただ、あの頃はバブルがはじける前だからみんな羽振りが良くて、正月に子供が来るとみんなお年玉くれたんですよ
今思い返してみると、そりゃ親父も子供連れて初荷にいくよな、なんて思います(笑)
今でもその時期に子供が来るとお菓子をくれたりして、そういう雰囲気が残っているのは嬉しいですね
~ 寿司屋の世界に一歩踏み出した18歳 ~
高校に入ってからは、特に目標もなく、部活にも入らず、なんとなく過ごしてたんですが、
頭のどこかに、寿司屋をやらなきゃなって、想いがあって、卒業してすぐに、18歳でこの店に入りました
小さい時から試験中だろうと、何だろうと出前とかの手伝いはやってたんで、違和感なく始められましたね
親父は物を言わない人だったから、包丁使いとかは習わなかったですし、最初の頃は包丁も碌に使えないから、仕込みもできませんでした
でも、かんぴょうを煮るのを見る、穴子のつめを作るのを見るとかはできるから、それを見て勉強しました
昔から料理や何かを作ることは好きだったんで、自然に覚えていけましたね
親父の下でしばらく修行してから、元々親父と一緒にこの店でやっていた親戚の伯父さんが独立して赤塚の方に作ったお寿司屋さんがありまして、
そちらを手伝いながら修行させてもらっていました
うちは全員身内で商売してたんで、できもしないのに、自分の中できちっとしないといけないって気持ちも外に出る理由にあったんでしょうね
それから数年後に、親父が肝臓がんになりました
わかったときには余命3カ月、私が24歳の頃でした
~ 親から子へ受け継がれる店 ~
親父の具合が悪くなって、店に主力がいないから帰ってこいって連絡があって戻りました
親父が亡くなるまでの間に、私に頼んだことは、たった一つだけでした
入院して仕入れにもいけない親父から「良い仕入れをしてくれ」って
最後の方は病院に行って顔は見るけど、痛くてしかめ面の父を見るのが、正直辛かったですね
親父が亡くなってから3年くらい経って、親父のお見舞いにも行ってくれた一番古いご近所のお客さんがね、教えてくれたんですよ
「お前の親父にな、『お前の息子、お前より旨い寿司握るわ』って言ったら、親父の目から涙が流れてたぞ」って
私は、その一言に救われたんです
一番口うるさいお客さんですけど、信用もしてたんで、その人が教えてくれて
仕事は見てないでしょうけど、親父が安心してくれたのかなって
~ お客さんから厳しい言葉に鍛えられ、お客さんとの信頼関係を築いてきました ~
私は、バブルが終わった頃くらいにこの店を預かりました
今思うと、景気の悪い時から初めてよかったな、とも思っています
駆け出しだった自分と同じで、あとは登るだけですからね
はじめの頃は、お客さんにけちょんけちょんに言われまくりましたね(笑)
先代の味が美味しいとか、これがダメ、あれがダメって
その度に、それを「恥ずかしい!」「みっともない!」と思って、直そう直そうと一つずつ直していきました
案外そういう言葉って頭に残ってて、「そういえばあの時言われたな、気を付けよう」ってよく思い出すんです
なので、店を預かってからは、常に厳しい環境にはありましたね
お客さんとの信頼感が結ばれるまでが難しくて、こっちがどれだけ思っても、お客さんが思ってくれなければ、信頼関係はできないですかね
お寿司をはじめ、食事を提供するだけではなく、お客さんとの会話の中で好みや気分に合わせてお造りできるようになるのには、なかなか時間がかかるものです